matoa:
まず、率直な感想としてどうだろうね。
俺は「普通」っていうのが、第一印象。それがこの建築の問題なんだと思うんだけど。
faas:
まあ「普通」を目指してるんでしょう。
ただ、見た目は普通でも実はメガストラクチャーでつくってるので、つくられ方は普通ではない、ってことだよね。
matoa:
そうだね。
まず建築としては「普通」であることを目指しながら、つくられ方が「普通でない」ことで建築家の作品として成り立っているという問題があるよね。それとメガストラクチャーが文字通り唯一この建築を支えているものだとしたら作品としてはちょっと弱いんじゃないかと思けど。
faas:
>メガストラクチャーが文字通り唯一この建築を支えているものだとしたら
新建築では、「アルゴリズム云々」には触れられてないんだよね。いままでさんざんプロセス主体で語ってきてたのを、今回の新建築のテクストでは「できた結果の建物」のみについて語っている。
で、そこで「メガストラクチャー」に焦点が当てられてるんだけど、この「メガストラクチャーでつくられた建築」、というところにどこまでの新しさ・説得力etcがあるのか、というのが問題だと思うんだ。
メガストラクチャーによって「1Fの無柱空間」と「賃貸部分の薄い壁」ってのが実現できてる、ってことが言われてるんだけど、1Fの無柱空間ってのはともかく、賃貸部分での空間のつくりにメガストラクチャーの効果が見えない、っていうのが非常に大きい問題だと思う。
(ここでも同じようなことを指摘されている:http://ameblo.jp/mscblog/entry-10109243132.html(満田衛資))
65mmの吊り材にして、壁・柱を室内に露出させない・・・・って言ってても、そうやってできたものに説得力を感じないんだよな。
そこらへん、どう思いますか。
matoa:
それについては同感だね。
1階の無柱空間を実現したいなら5階のメガ梁ってやつを2階に使用すればいいだけの話しだし、2階から5階で柱を細くすることがこの建物で、どれだけ効果を生んでるのか疑問だよね。むしろこの「メガストラクチャー」で色々な制約を受けてしまってるような気もするし、65mmの吊り材もLGSの65に合わせたのかわからないけど、耐火被服して結局大きくなちゃってるし、施工的にも面倒な気がする。
結局、建築家の作品にするために無理なことをして、色々犠牲にしてるんじゃないかと思うと、彼が色々なメディアで掲げていることが怪しく思えてくる。厳しい言い方だけど。
新建築でプロセスについて語られなかったのが、誌面上の問題なのか、意図的なのかにしろ、建築があくまでプロセスが表に現われないものである以上、作品として「普通」であったらもうそれは作品ではないような気がする。 その辺、作品を支えるものが何なのかというところが問題だと思うけど、どうですか?
faas:
作品を支えるものは、やっぱり新建築に載せてる文章で語られていることなんじゃないの? オフィシャルには。
ただやはりそれが説得力を持ち得ているかというと、うーん、そこに関しては失敗してる気はするよね。
というか壁もっと薄くなるんじゃない? ほんとにLGS感覚でさ。外壁はまだしも内壁でも(図面見る限り)壁厚200ぐらいあるとこがあるよね...?
JAとかに載ってる、施工途中の鉄骨だけの写真とかあるじゃん。あれ見るとなんかおもしろそうな建築に見えるんだよ。
あれが最終的に仕上げまで終わったときにあのイメージのままできてたら、まだ納得はいくんだよな。
でも、それって、いろいろやりようはあったと思うんだよ。納まりだけの話だし。
それをしてないってことは、そこに例のアルゴリズミック・デザインの限界がある気がする。
matoa:
確かにあの施工途中の写真は分かりやすくて面白そうだけど、でもあれは構造<だけ>なわけで、そういう意味では新建築の文章にある、意匠・構造・設備の関係を問い直して、複雑な諸条件を高いレベルで統合云々みたいなのは言い過ぎだよね。
あのイメージのまま、今回の建物をつくるのは至難の業な気がするな。。。むしろ壁がないような建物でやったほうが面白いんじゃない?
>それをしてないってことは、そこに例のアルゴリズミック・デザインの限界がある気がする。
あのエクセルの表の一項目としてメガストラクチャーの導入が出てくるんだけど、なぜそれが導入されるか、それがどう空間に影響を及ぼしていくかが全く記述されていない。なんというか、目次だけあって中身がないようなもので、多くの人間に共有されることの重要性を彼はよく言ってるけど、なんか目次だけ共有してもなって気がしちゃうんだよね。
色々メディアで語ってはいるけど、作品を支えるものが突発的に導入されたメガストラクチャーで、それが実は今回の建物で上手く機能しなかったってことなのかな?
faas:
>複雑な諸条件を高いレベルで統合云々みたいなのは言い過ぎだよね。
そこがメディア戦略というか「建築の説明」につきまとう問題というか....。
アルゴリズミック・デザインが孕む問題も同じところになると思うんだけど。
結局メディア上での説明手段にしかなっていなくて、本当に他の可能性はなかったの?っていうのをどうしても疑問に思ってしまう。
やってる途中ではたぶん関係者たちのなかではそれなりの必然性を伴っていたとは思うんだけどさ。
たとえば、メガストラクチャーの効果があまり出てないってことがわかったら、その時点で後戻りすべきとも思うんだけど、そうはならないんだよね。どうもメガストラクチャーが、設計中のどこかの時点で、達成すべき既定の目標みたいになってしまったように見えるんだが...。
そしてエクセルの表とかも、それをあたかも必然の結果のように見せるための道具として使われている・・・・
.....うーん、ちょっと辛辣になりすぎてるかな??
メガストラクチャーが必然性を持ってない、っていうのは確かだとは思う。
matoa:
>たとえば、メガストラクチャーの効果があまり説得力ないってことがわかったら、その時点で後戻りすべきとも思うんだけど、そうはならないんだよね。どうもメガストラクチャーが、設計中のどこかの時点で、達成すべき既定の目標みたいになってしまったように見えるんだが...。
まあ、これがなければ<普通に見える>建物じゃなくて、ほんとに<普通な>建物になっちゃうからね。
>メガストラクチャーが必然性を持ってない、っていうのは確かだとは思う。
そうだね。ただ必然性はなくてもいいような気がするんだよね。そのことが、建築としてもっと魅力的な空間をつくるとか、があればの話だけど。
ただこのBUILDING Kは、そのこと自体が疑わしいのと、設計者の多くの発言によって、その辺が曖昧になってるんだよね。
より多くの可能性の中から取捨選択して必然性を導くようなことを言っておきながら、フィードバックもしないで、ある種の合理性を謳ってたり。結局何が基準になって、いるかがよくわかんないんだよね。。
だとすると、この建築の可能性はなんなんだろって思ってしまう。
faas:
いや、俺はけっこうこの建物は惜しいとは思ってるんだよ。
メガストラクチャーがこの建物の肝っていうのはその通りで、
前の「住宅特集2007年1月号」に載ってたあたりで、この建物はメガ・ストラクチャーでできているってのを始めて知って、そのときの文章だけ読むとすごい期待させられるんだよね。
外観模型見た印象だとそんなに形態的に特徴あるわけでもないし、むしろどこにでもありそうな建物で、でも実は中はメガストラクチャーでつくられていて、それによって1Fの店舗での無柱空間と、賃貸部分での軽快な構造が実現できている、って言われていて、なるほど、〈表面的形態ではなく深層構造に関与してつくられる建築〉っていうのは、そういうことなんだ、って納得させられる。
...なんだけど、できあがってみると、メガストラクチャーをわざわざ導入して目指していたはずの「効果」が中途半端にしか達成できていない。
問題点はそこだと思うんだ。
これがもし、完成した賃貸部分の空間が劇的に「普通じゃない」ものになっていたら、俺はかなり説得力感じてたと思う。
しかしそうはならなかった。そして、そうならなかったというのは、アルゴリズミック・デザインがただしく機能していないことを意味していると思う。つまり、「フィードバック・反省機能」がないんだよね。
こういう失敗を(あえて失敗と言いますけど)予想できなかったというのは、このデザイン手法に問題があるということだと思う。
matoa:
ただ俺はその達成度の問題よりも、そもそも目指そうとしていた空間とこのメガストラクチャーの導入に相関関係がないように思えてならないんだよね。あまりに唐突すぎて。
結局のところ、アルゴリズミック・デザインってデザイン手法というより、超線形設計プロセスという記述の問題に集約されると思うんだけど、つまり、アルゴリズム的というよりは単に記録的、あるいは記録可能な建築。言い換えればそれだけ可能性が限定されてしまってるような気がする。
メガストラクチャーの導入っていうアイデアこそこの作品を支えるものであることは間違いないわけで、なぜなら同様のプロセスの記述によっては他の可能性(入れ替え)もいくらでも考えられるわけで、このメガストラクチャーこそ他にないもの(置き換えられないもの)として焦点が当てられ、作品足りうるものにしているんだよね。
新建築という雑誌でその記述が語られなかったことこそ何よりそれを(記述によってオリジナリティが生まれているのではないことを)示していて、だから手法と導入されたものがどうも一致しないんだよね。。。
faas:
そうだね。「記録的」だね。
で、前も言ったことあると思うんだけど、プロセス自体は組織設計事務所だってやってることであって、新しさがあるとすれば、それを記録してメディアに公開してるってところに新しさがあるんだと思う。
しかし、プロセスの過程で、なぜAではなくBが選ばれるのか、というところには確たる理由がないように見える。
逆に言うと、「AではなくBが選ばれる理由」がもっとアピールされているならば、アルゴリズミック・デザイン...というか超線形設計プロセス?に意義が出てくるとは思う。いまのままだと単に線形のプロセスがエクセルで提示されてるだけに見えてしまうんで...。
だって、同じ手法で他の設計事務所がやったとすれば、絶対に違う結果が出るでしょう?
それはプロセスのなかで、何を選択するか・何に重きを置くか、っていう違いがあるからで、
だとすればやはりプロセス内での選択の根拠にこそ焦点を置くべきだと思うんだ。
....うーん、そうすると、いずれにいしてもこのアルゴリズミック・デザイン/超線形設計プロセスに問題がある、もしくは未完成・中途半端、っていう結論になっていくんだろうか?
matoaはこの設計手法には何か可能性があると見ている? 磨けば良い方向になっていくものだろうか?
matoa:
そうなんだよね。
その枝分かれの仕方とか、その選択の仕方とか、その辺徹底させないと、この手法は便宜的な記録的機能以上のものにはならない気がする。ただ俺としては実は完全に否定的ではないんだよね。建築家として突発的なアイデアだけでやることには今の時代に確かに限界も感じるし、社会的な承認も得られない気がするんだよね。
そこで彼みたいに、自分の頭の中をオープンにして色々考えた上での結果です、みたいなアイデアの総体をそのまま見せて建築化していくことに面白みは感じる。そういう意味では可能性はある気がしてるんだよね。
ただ、やっぱり今の段階ではその総体があまりにチープっていうか、まだまだ不透明な部分が多いって言うか。。
faas:
現時点で完成されてる必要はないし、可能性があるならそこを議論していく、って方が前向きだよね、きっと。
そういう姿勢は重要かもな...。
彼らの方法が、やがてなんか新しいものになっていく気は俺もしてる。
彼らがプロセスを記録し続けていくなら、今うやむやになって見えてしまってる部分も整理されていくと思う。
たとえばこの俺らの一連のやり取りだって、ある種のプロセスの記録だし。
対面して議論してると、その内容は言ったその瞬間に消えていく儚いものだけど、
こうやってメールでやり取りしてると、俺たちが今まで対面で話して議論とはまた違った感じを実感するんだけど?
matoa:
確かに。情報化社会って大量の記録に溢れてるように見えるけど、実はほとんど記録されてる、できてるものはなくて、そういう意味で彼は頑張っているんじゃないかと思うんだよ。だけど、その先に何があるのかはなかなか見えない。
それとやっぱり違うのは一度記録されたものを消したり更新したりできるかどかだろうね。
建築ってやっぱりコストがあって、スケジュール的なリミットがあってやってるわけだから、どこかで妥協してくしかないところがあって、そこをどうクリアするかを今後は期待したいね。それには人的な努力だけでは限界があるような気がするけど。
faas:
記録というのは、たぶん読み返すことに意味があるよね。
で、読み返すならそこからのフィードバックがないと。
ただ記録してくだけでは意味がない。彼らはまだいまは記録してるだけにとどまっている気がする。
建築には妥協するところがいろいろある、っていうのは、たしかにそうだよね。
自分の実感から言っても、建築設計なんてある意味ほとんどが妥協みたいなところもあって...。
でももしそのプロジェクトの関係者が、プロジェクトを進行していくときに、過程を記録して全員がそれを参照しながらやっていけば、
その妥協が最善のものになっていくのでは?
というか、それが彼らの目論見、なのか。。。
うーん、やっぱり俺のイメージとしては、手法自体には可能性はあるけど、今回のBuiliding Kでは最良のかたちでそれが作用しているには至っていない、
というところかなー。
(エクセルのあの表じゃねぇ...。ちょっとあまりに原始的すぎるというか。
あそこらへんの見せ方だけでももっと他のやり方があると思う。)
matoa:
フィードバックすると時間とコストが掛り過ぎるっていう初歩的な問題が発生するんだろうけど、そこをクリアしないとねぇ。
でも、線形的だとそもそもそれがありえないのかな?フィードバックしないで済む方法とか、その辺をうまく解決していければ、今後の可能性として期待していいんじゃないかと思うよ。
faas:
というかなんで線形じゃないとだめなんだっけ...?
一旦決まった合意事項を固定のものにして次のプロセスに進む、って理由かな?
線形じゃないと集団での合意形成ができないってことなのかな?
たしかにフィードバック含めて非線形でやってくと時間もかかりそうだしな...。
そこに焦点を当ててみたのはやっぱりいい着眼点だと思う。
今までの建築家(というかいわゆる古いタイプの建築家)は、デザインやるだけ、って感じだったわけだし。
(単純にそう言い切っていいかはちょっとこの際おいとく。)
そうではなく、設計行為とは、建築家だけでなく施主や協力者・関係者含めたプロジェクトチームのなかでの関係性である、っていう捉え方は、山本理顕に通じるものもあるね。(「建築家はプロジェクト内での単なるエージェントのひとりにすぎない」)
そういう認識はまちがってないと俺も思ってるし、だとすればその関係性をどのように有効に実行してくか、が今後の課題であるとも思っている。
その実践のひとつとして彼らのやり方は評価できるね。
だとすると、俺なりのまとめとしては、彼らのやり方ではない別のやり方があるだろうか?ってところかな...。
今後そういうのを少し考えてみていってもいいかもね。
matoa:
確か魚の生成プロセスになぞってたよね。
多分、正しい建物は線形的に決まるものだということなんだろうけど、、、そもそも生物と建築物がなんで同じ成り立ちなのかって話だよね。
建築はそれこそもっと複雑な様相が絡まって成り立ってるんだから、成り立ち方はそんなに単純じゃないはず。
そういう意味ではfaasの言う<設計行為>そのものとも関係していて、それが<結果としての>建築というのであればもっと全体が複雑なチャートの上で成り立っていてもいいと思う。
それがうまくいけば、faasの言う<今までの建築家>像に代わるものに成りえるかどうかは分からないけど、少なくとも新しい建築家像の一つとして成立するんじゃないかな。
あくまで最終的に一つの形として建築を提示することには変わりはないんだけど、その背景として全く別の骨格があるようなちょっと不思議な感じで面白いと思う。
faas:
アナロジーとしては訴求力あるけどさ....。
建築にはただしい建築なんてなくて、無数の可能性があるはずだもんね。
matoa:
魚の生成プロセスっていうのは、基本的には間違いなく(no errorで)生成される、言ってみれば神の視点だよね。だけど、建築の場合、つくるのは人間なわけで。。。
faas:
ほんとうは魚の生成プロセス、鳥の生成プロセス、人の生成プロセス・・・っていろいろあって、(もちろんさらに細かいカテゴリも無数にある)
そういう魚・鳥・人・牛・馬・etcっていうそれぞれが、いろんな建築の可能性、なんだと思うんだ。
彼らはなぜか「魚の生成プロセス」だけをあたかもひとつの正解みたいに提示しているけど、
そうではなく、建築設計を生物の生成プロセスになぞらえるなら、いろんな生物の生成プロセスの集合、として提示すべきなんだよ。
藤村龍至事務所が設計すると魚になったかもしれないけど、俺が同じような手法でやったら鳥になった、とか。あるいは伊東豊雄なら人になりました、とかね。
>もっと全体が複雑なチャートの上で成り立っていてもいいと思う。
それだよね。今の状態だとちょっと単純なんだよね。単純ってことは、意図的に何かを切り捨ててるってことなんだろうな....
>新しい建築家像
そう、一方で新しい建築家のタイプが生まれる予感も俺は感じている。
>あくまで最終的に一つの形として建築を提示すること
それが大切なところ。
で、いまのままだとやはり「手法」と「結果としての建築」に溝がある。
その意味でBuilding Kは、何かが決定的に不足している。
matoa:
そうだね。
BULDING Kで欠けてたものを次に期待するってことでいいんじゃないでしょうか。