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建築公園の第一回目の試みであるダイアログについて、藤村龍至氏本人がご自身のブログで紹介してくださりました。
http://www.round-about.org/2008/08/41200.html
あまりまとめきることができなくて有意義な結論には至ってはいないにもかかわらずご本人に読んでいただきコメントまでくださったこと、大変恐縮に思います。
つきましては、....というわけでもないのですが、少し自分のなかで不足していたかなという部分・言い足りなかった部分についてこちらで捕捉させていただきます。これは藤村氏への応答というよりも、最初のエントリで本来示しておきたかった自分のスタンスについての表明です。
現在、日本の建築デザインにおけるもっとも重要な特徴は、〈私性〉を追求する表現にあると私は見ています。厳密に言えば一部の建築家および少なからぬ数の学生の間でのみの志向にすぎないかもしれませんが、しかし〈建築思想〉なるものがほぼ消滅した現在においては、まとまった志向性を持つ設計態度として希有であり、無視することはできない潮流だと思います。
90年代に至るまでは、デコンストラクティビズムの残滓とプログラム・オリエンテッドな建築とに挟まれ、〈私性〉を謳う建築は抹消されかけていたように思うのですが、ゼロ年代に入って急速に「私的な気持ちよさ」を肯定する建築が現れ大きな評価を得ていく・・・・この流れ自体は、建築の多様性を確保するという意味で歓迎すべきことであるのは間違いありません。しかしどうもこの潮流が同時代性というよりも流行による安易な再生産過程を見ているようだな...といつしか思い始めたとき、一方でいつのまにか「建築を透徹する論理性」のようなものが極端に回避され軽んじられ始めてもいることに気付きました。
「批判的工学主義」はこうした状況下で展開されており、「運動」を標榜するものの現時点では際立った勢力を獲得するには至っていません。しかし私には、この運動は現在の建築デザイン界にあって非常に異彩を放っているように見えます。
一方の極には〈私性〉を拠り所にする建築群があり、そこでは論理性というものが特に重要視されてはいない。建築を説明する際には、「気持ちいい」とか「素敵」だとか「〜がいいと思います」などのことばが多用され、その文章に概念の厳密性や整合性を求めても徒労に終わります。それらのテクストは、概念を明確にすることではなく、共感を喚起する機能に徹しているからです。
そしてこの真逆に位置するのが「批判的工学主義」だと言っていいでしょう。この運動では*1、説明することに対して大きなエネルギーが注がれています。たとえばJA70号に顕著にあらわれている通り、誌面でのテクストの量は(平田晃久氏と並んで)圧倒的に膨大なものになっています。文の量もさることながら、特徴的なのは説明する際の言葉遣いそのもので、私性の建築とはまったく別世界の様相を呈しています。言葉の定義から丹念に説明し、順を追って論を展開していく。そのなかではたとえば社会学者への言及*2があったり、客観的なデータ、実社会での具体的な例(IKEA店内の様子など)を示したり、曖昧なもの・印象論にすぎないものを極力排除しようという意識が見られます。こうした態度はいずれも他には見られなくなってひさしいものばかりです。
知を積み重ねていくという観点で言うならばやはりそうした態度で建築を語るべきと思うのに、現状での主流は残念ながらその正反対にあります。
〈私性〉の建築は、それはそれで建築の可能性を追求する有意義な試みとは思うのですが、どこかで袋小路に入ってしまうように思います。得られた成果を幅広く共有し、役立てること、というある種の公共性を鑑みるならば、やはりわれわれは自身の言葉遣いに反省的であり、論理の厳密性を意識するべきだと考えます。私には、なぜそのようなスタイルが廃れかけているのかがわかりません...。そんななかで孤軍奮闘する「批判的工学主義」が重要性を持っていることは疑いようのないことです。*3
「批判的工学主義」の側も「私性」の建築家たちの側も、お互いを敵視し合っているわけではなく、むしろ異質な相手から学べるものは学ぼうという態度でいるでしょうけれども、私としては、このふたつは中途半端に融和することなく、徹底して対立していてほしいと思っています。
なぜならこの両者は互いに相容れることなく方向性がすれ違っていて、だからこそ建築の可能性をそれぞれがまったく独自に拡張していけると思えるからです。そして、「私性」の建築の方が圧倒的に優勢に見える現時点では、私は「批判的工学主義」のスタンスに与したい──正確に言うならば、「私性」「感性」に駆動される設計よりも、「理性」「言語」を徹底する立場への加担を表明したい。もちろん後者のすべてが「批判的工学主義」と同じ思考を持つ必要はなく、そのなかでもさまざまなバリエーションがあって然るべきですから、私自身が目指す方向は「批判的工学主義」とは異なったものになる可能性が大きいはずですが。
ともあれ、そのように私が「批判的工学主義」に徹底した論理性を期待するからこそ、現時点でその論理展開に少しでも引っかかる点があるととても気になってしまう.....*4、といったところを件のダイアログにおける個人的な焦点に据えたかったのですが、なかなか拙い流れのなかではそこまで行き着くことができませんでしたので、ここに改めて記しておきます。
ところで、以上の文章は当然のことながら私の文章そのものにも返ってくるものとなります。先のダイアログおよび上記文中で既にことばの厳密性に欠くものがあるならばそれは私の未熟のゆえではあるのですが*5、とはいえそのようにエクスキューズを打っておいておしまいにしたいとも思ってはいません。
私たちがこのダイアログのサイトを立ち上げたのもそこにひとつの理由があります。他者とのコミュニケーションを経てそれを記録に残すことは、「ことば」の意味、そしてそれがどのように伝わるかということに意識的になることであると思うのですが、そのようにして、ひとりでの単独の思考ではこぼれがちな論理性・厳密性に到達したい....すくなくとも私faasの目論見はそのようなところにあります。
ですから、かならずしもこのサイトをmatoaとfaasというふたりに閉じたものにするつもりもなくて、サイト外との対話、そしてゆくゆくはこのサイト内でもさらに多くの参加者*6を加えた幅広いコミュニケーションへと拡げていきたい──これも現時点ではfaasの私見(というより夢想)にとどまっていますけれども──というようなことを考えています。
*1:といっても建築設計として具体的に実践しているのはいまのところ藤村氏だけのように思われますが。
*2:こうした態度が「かっこわるいもの」になってしまったのはいつからなのでしょう?
*3:平田晃久氏も近いスタンスにいると思います。目指している内容ではなく、建築をどのように語るか、という点において。
*4:どうも建築界には、論理性という面で自己に厳しい語り口が少ない印象があります。建築界における〈知の巨人〉として君臨する磯崎新氏ですら、「これはエッセイである」というエクスキューズで逃げてしまう。〈建築設計〉がいまだに体系らしきものを得ていないのも、そこにひとつの関係がある気がします。(東工大系の建築家たちには、建築を説明する論理性およびその語り口というものにきわめて意識的なところがあって、そのような流れには希望を感じます。)
*5:とくにここでの「批判的工学主義」および〈私性〉の建築、という語の使用については曖昧なものがあるとは思いますが...。この問題についてはいずれどこかで再整理したいと思っています。
*6:多人数でのウェブ上でのディスカッションがどのように運営可能なのかはまた別の問題がありますが。